大人のたしなみ パールジュエリー【その1】
フォーマルな場面はもちろんの事、カジュアルな装いにも華を持たせてくれる真珠は、ジュエリーコーディネートする上では何かと重宝する宝石の一つです。
結婚式やお葬式、式典などの冠婚葬祭では、欠かせない真珠は、大人の女性としてマストアイテムだとも言えます。
そんな真珠についてご紹介していきます。
第1回は真珠の歴史について触れていきます。
人類最古の宝石 真珠
真珠は、人類最古の宝石だと言われ美しく七色の光沢放つそれは、世界各地で古くから宝石として珍重されてきました。
またその希少性から薬としての効能を期待し、服用されることもあり、日本でも解熱剤として使用されていたこともありました。
エジプトでは紀元前3200年頃から既に知られていたと言われるが、宝飾品としてあるいは薬として珍重されるようになったのは後の時代で、クレオパトラが酢に溶かして飲んでいたと伝えられています。中国では紀元前2300年頃、ペルシャで紀元前7世紀頃、ローマでは紀元前3世紀頃から真珠が用いられていたという記録があります。
日本も古くから、真珠の産地として有名であり、邪馬台国の時代に魏に白珠(真珠)5,000が贈られたとの記述があります。
そんな古くから重宝がられていた真珠には、「健康・無垢・長寿・富・純潔・清潔・素直・円満・完成」などの意味が込められています。また、「月の涙」や「涙の象徴」ともされ、悲しみの席などに身に着けることを許され故人や遺族への敬意の現れともされてきました。
養殖真珠の開発
真珠は天然では産出量が少ないため、養殖によって作れないか研究がされてきました。11世紀頃の中国ですでに行われていたようですが、量産は難しかったようです。それは、なぜ貝から真珠が出てくるのか長い間分からなかったためです。
19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパの研究者によって様々な研究が行われ、これらの研究もとに初めて人工的に真珠を作り出したのは日本人でした。これが養殖真珠の始まりです。
養殖真珠を作った日本人は御木本幸吉氏で1893年(明治26年)に英虞湾神明浦で養殖アコヤガイの半形真珠の生産に成功しました。
そして、1905年(明治38年)には英虞湾の多徳島で真円真珠の採取に成功しました。
真円真珠の発明者は、日本では西川藤吉・見瀬辰平の2人があげられ、1907年(明治40年)見瀬辰平が、はじめて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得しました。続けて西川藤吉が真円真珠生産に関し真珠形成法の特許を出願しました。
その後御木本幸吉氏の次女の夫である西川藤吉氏が真円真珠生産のための真珠形成法の特許を出願しました。この特許は見瀬辰平氏の特許に抵触するとされ争いになりましたが、結局西川藤吉氏の名義で登録され特許は共有となりました。
この養殖真珠の技術は日本国外では、Mise-Nishikawa Methodとして知られています。
その後、様々な技術の改良を経て真珠養殖は広まりましたが、1921年にイギリスで天然真珠を扱う真珠商や宝石商を中心に養殖真珠が偽物だという排斥運動が起こり、パリで真珠裁判が行われましたが、1924年5月24日、天然真珠と養殖真珠には全く違いが無いということで全面勝訴となりました。
養殖真珠の評判は徐々に上がっていき、1930年頃になると天然真珠が重要な産業だった国は深刻な事態となりました。
そして1950年代になると日本の真珠産業はヨーロッパに取って代わり世界のシャアの9割を占めるようになりました。
しかし、1996年(平成8年)頃から始まったアコヤガイ赤変病によるアコヤガイの大量斃死現象や真珠摘出後の廃棄貝、および生産地周辺の排水による湾の富栄養化などの要因から日本のアコヤ真珠の生産量は低下しております。
それでは次回は真珠の特徴について触れていきます。
なぜそんなに人々を魅了するのか探っていきましょう。